御由緒
第56代清和天皇の貞観元年(859年)、大和国(奈良県)大安寺の僧侶であった行教(ぎょうきょう)が、九州で最も霊験あらたかな豊前国の宇佐八幡宮(宇佐神宮)に参拝しました。宇佐八幡宮は大陸文化の影響を受け、新しい文化圏をもつ神で、地方神としては伊勢神宮についで朝廷の信仰を最も受けていました。
行教は神前に額ずき「桓武天皇は都を平安京に遷させ給うてより(平安遷都)、五十年以上も経過したが、未だに王城鎮護の神はなし。願わくば神慮が我に降って、守護神を教え賜え」と祈念したところ、「吾れ都近く(山崎離宮のあった男山)移座して国家を鎮護せん」とのご神勅を受けました。
そこで翌年の貞観2年(860年)、清和天皇は太宰大弐(太宰府の太宰師の次の位置する職)清原真人岑成を勅使として派遣。勅使の旨を受けた行教は、畏んで宇佐八幡宮のご分霊を山城国(京都府)にお遷しする(石清水八幡宮の創建)途中、門司関の霊峰筆立山(大宮山)の山麓に滞在しました。
するとその時、筆立山上空に瑞雲(めでたいことの前兆として現れる雲)がたなびき、不思議なことに八流(やながれ)の幡(はた)を天降(あもり)して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らしました。
行教は「大神の出現疑いなし」と上申し、この地に宇佐八幡宮の御分霊を祀り、神功皇后御着用の御甲を御神霊(御神体)として外朝西門鎮守門司八幡宮(後に甲宗八幡宮)を創建しました(御甲をご神体として祀ることから甲宗と称すようになる)。
祭主は宇佐神宮初代宮司大神比義を始祖とする大神義勝であります。
祖先には遣唐使あるいは遣唐副使がおり、義勝以後、歴代の宮司は五攝家の近衛家より、九州及び四国一部の海上総関門で朝鮮・中国大陸との交流の要衝でもある門司関の関司(別当)に任命されました。
歴史年表
養老元年(717) | 大神難波麿(宇佐大神氏)遣唐使随員として派遣される |
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宝亀8年(777) | 大神末足(宇佐大神氏)遣唐副使として派遣される |
仁寿元年〜天安2年(850〜858) | 大神義勝(門司大神氏)遣唐使として派遣される |
貞観2年(860) | 甲宗八幡宮の創建 |
文治元年(1185) | 壇ノ浦合戦の勝利後源範頼・源義経(共に源頼朝の異母弟)参拝 重藤弓・鏑矢を献上 平家追討の祈願成就 社殿修造 |
寛元2年(1244) | 鎌倉幕府は関門・北九州の沿岸警護のため藤原親房(後の門司氏)を豊前代官職として軍船七十余艘を率いて西下させる 門司氏は門司六ヶ郷(楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷)を支配 甲宗八幡宮を氏神として崇敬する |
文永9年(1272) | 門司六ヶ郷名々図田注文写(古文書1) |
建武3年(1336) | 足利尊氏戦勝祈願 社殿建立(古文書2) |
永正17年(1520) | 門司八幡宮神役免田坪付注文(古文書3) 大内義興補任状(古文書4) |
天文元年(1532) | 大友の兵火により社殿神具古記等焼失 |
天文13年(1544) | 大内義隆大府宣(古文書5) |
天文21年(1552) | 大内晴英安堵状(古文書6) |
永禄5年(1562) | 門司八幡宮諸神役注文(古文書7) |
永禄11年(1568) | 門司八幡宮神役目録(古文書8) |
永禄12年(1569) | 大友の兵火により焼失 毛利元就造営 |
慶長5年(1600) | 天正年間(1573〜1593)の兵乱による荒廃のところ細川忠興が小倉藩主となり長岡勘解由を奉行とし再建 |
慶長年間(1596〜1615) | 細川家より神領の寄進あり |
寛永9年(1632) | 小笠原忠真(石清水八幡宮で元服し八幡太郎と称された源義家の弟義光の系譜をひく)が小倉藩主となる 小笠原忠真は甲宗八幡宮を門司六ヶ郷(楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷)の総鎮守とし到津・宮尾(篠崎)・蒲生の各八幡宮とともに領内四所八幡宮として尊ぶ さらに祇園社(八坂神社)を加えた五社を豊城鎮護府内五社(甲宗・祇園・到津・宮尾・蒲生)としてその上位と仰ぎ別格社の速人社(和布刈神社)と共に毎歳幣帛の儀滞りなく行われる 細川家の時代より引き続き神領の寄進あり |
慶安2年(1649) | 小笠原忠真造営 |
承応2年(1653) | 小笠原忠真神馬奉納(古文書9) |
承応3年(1654) | 小笠原忠真重藤弓・鏑箭奉納(古文書10) |
天保12年(1841) | 小笠原忠微拝殿・御供屋建立 |
文久3年(1863) | 香春神社が加わり豊城鎮護府内六社(甲宗・祇園・到津・宮尾・蒲生・香春)となる |
慶応2年(1866) | 第二次長州征伐の戦火により神殿焼失 亀山社中坂本龍馬等操舵の軍艦に砲弾を受ける |
明治元年(1868) | 毛利元徳神殿再建 幣殿造営氏子中(氏子により) |
明治5年(1872) | 郷社に列す |
明治30年(1897) | 拝殿改築・幣殿移設(社務所とする)・絵馬堂新設 |
明治40年(1907) | 諸殿宇改築起工 奉幣殿・楼門・回廊上棟 神殿正遷宮式 神殿及び楼門は内務省技師安藤時蔵の設計 |
大正9年(1920) | 出光佐三氏病気平癒祈願 |
大正11年(1922) | 県社に列す |
昭和6年(1931) | 神敬閣(能楽堂併設)建立 |
昭和20年(1945) | 大東亜戦争の米軍空襲により六百余個の焼夷弾が落下し神殿・拝殿・楼門等焼失 |
昭和33年(1958) | 神殿・拝殿・社務所再建 拝殿は門司区長谷の武徳殿(武道場)を建材とした |
昭和48年(1973) | 出光佐三氏鳥居奉納 |
昭和61年(1986) | 出光昭介氏手水舎奉納 |
平成20年(2008) | 能舞台(神敬閣)再建 |
甲宗八幡宮にまつわる古文書
一、門司六ヶ郷名々田図注文写
楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷を門司の六ヶ郷といいます。その六ヶ郷に散在していた公田(国が管理する田地)を注進した名簿で、今でいう土地台帳。鎌倉時代文永九年に作成されたものが長禄三年に書写され、さらに享禄二年に花尾城で書写したことが記されています。
ニ、足利尊氏寄進状
京都での合戦に敗れた足利尊氏は再起を期すため九州に逃れ、多々良浜で菊池勢と戦い太宰府に入りました。その後、九州の軍勢を連れて再上洛をめざした尊氏が、船上から門司八幡宮(甲宗八幡宮)を伏し拝み、戦勝を祈願して田地を寄進したもので、源朝臣とあるのが足利尊氏であります。
三、門司八幡宮神役免田坪付注文
毎月1日に行うお祀りや2月と8月の彼岸のお祀りなど神役の費用を捻出するために年貢を免除された田地を注進したものです。宛名の飯田大炊助(興秀)は豊前国守護の大内氏の家臣で、この文書の裏にはこれを保証した飯田興秀と冷泉興豊の連署書が記されています。
四、大内義興補任状
山口の大名である大内氏は当時、豊前の守護を勤めていました。その大内氏の第30代当主である大内義興が申請に基づき門司八幡宮の大宮司に大神氏友を任命したもの。門司関にある社領および四所大明神の免田を領掌することを認めています。左京大夫とあるのが大内義興。大神の大が太になっていますが、当時は大・太は区別なく使っていました。
五、大内義隆大府宣
大府宣は平安時代に太宰府政庁が使っていた命令書で、中世に九州に勢力を持っていた武藤氏が少弐を名乗っていたのに対抗して、太宰大弐の官途を得た大内氏の第31代当主大内義隆が復活して使用したもの。築城郡角田庄内の田地を平盛定に与えたもので、盛定は甲宗八幡宮の関係者であろうと推察されます。最後に署名している大弐多々良朝臣が大内義隆。
六、大内晴英安堵状
周防介とあるのが大内晴英(後の義長)であり、敵対する大友宗鱗の弟でありましたが、晴英の母親が大内家の出身者であった関係で、大内氏の第31代当主大内義隆に謀反を起こし滅ぼした家臣の陶隆房(後の晴賢)が大内氏の第32代当主として迎えて跡を継がせました。しかし、後に毛利元就により滅ぼされ、晴英は最後の当主となりました。大内義興の時の補任状のとおりに大神氏に大宮司職を認めたもので、凌雲寺殿というのが大内義興。その補任状が四号文書で、大神親俊は大神氏友の孫になります。
七、門司八幡宮諸神役注文
門司六ヶ郷にかけられた甲宗八幡宮のご神役を書き上げたもの。旧暦の八月十五日(秋季大祭)に行なわれた流鏑馬はすべての郷や役人が参加しているほか、国武者弓始や地頭神楽など門司氏が勤仕する神役が多く見られます。正月1日の長配銭(朝拝銭?)は片野郷と伊川郷だけが負担しています。これは門司氏の北方惣領が片野系、南方惣領が伊川系であることと関わりがあろうと推察されます。
八、門司八幡宮神役目録
祭礼神輿の時の明松(松明)やお旅所の修理、流鏑馬の的板などを御代官が四分三納めていることがわかります。7号文書には門司津代官と出ており、当時門司を抑えていた毛利氏の代官であるように考えられます。社納された紙の使用法として午王宝印の用紙とか歩射祭の矢の鏃を拭くためだとか、記入されているのも興味深いところです。
九、小笠原忠真寄進状
小笠原初代小倉藩主の忠真による神馬の寄進状。忠真は細川氏の熊本転封により寛永九年(1632)小倉に入りました。承応2年(1653)は忠真58歳、この年の5月5日に参勤交代のため小倉を出発しており、天下泰平や万民安楽などを願っての寄進には、道中の無事や留守中の藩内の平穏をも願ってのことであろうと推察されます。
十、小笠原忠真寄進状
先の寄進状の翌年の日付で同じ5月である。この年5月には忠真は江戸詰めを免ぜられ、16日に江戸を出発して6月に小倉帰城となっている。5月28日の日付からすればその旅の途中に出したことになる。無事に江戸詰めのお役目を果たし領内へ近づいたという安堵感を表しているようでもあります。