境内ご案内

甲宗八幡宮は創建以来、朝野の崇敬弥高く、その時々の朝廷や幕府、大名そして氏子たちの造営や奉納を受けてまいりました。一方で源平合戦・南北朝争乱・戦国乱世・防長戦争そして大東亜戦争と度重なる戦災によって多くの神宝や建造物を失いましたが、領主や氏子崇敬者の尽力によってその都度復興してまいりました。ここではそんな幾度となく戦災から立ち直ってきた甲宗八幡宮の境内をご紹介します。


【三綱石】
当社が創建された際、神社前の磯辺にあった巨石を三韓からの朝貢船の綱を括り付けるための繋ぎ石としたもので、「三韓からの朝貢が絶えること無く両国の関係が友好であるように」と祈願されたものです。古来より「甲宗宮(甲宗八幡宮)第一の古跡也」と伝わり、時代によって移転を繰り返してますが、現在は神社正面入り口の向かって左側に鎮座しています。


【本居宣長翁歌碑】
江戸時代中期の国学の大家・本居宣長翁(1730~1801)の歌碑で大正13年(1924年)に建立されました。碑文には「海の外 おきつ千しまも 天皇の 御稜威かしこみ いつきまつろふ」と刻まれています。


【正面二之鳥居】
昭和48年(1973年)に出光興産創業者である出光佐三翁により建立された大鳥居で、社号額は翁によって揮毫されています(翁と当社のゆかりは「出光佐三氏とのご縁」をご参照ください)。なお、この大鳥居が建立されている場所は戦前には壮麗な二層造の楼門が建立されていましたが、戦時中の空襲により惜しくも焼失してしまいました。また石段途中には戦後に進駐軍がジープで駆け上がった痕跡が残されています。


【拝殿】
参拝や祈祷を行う建物で、当社の拝殿は度重なる戦災によって幾度となく焼失しています。直近の罹災は昭和20年(1945年)6月における米軍の空襲で、これにより旧拝殿と能楽堂として移設していた旧々拝殿が焼失してしまいました。現在の社殿は昭和33年(1958年)に現在の門司区長谷にあった武徳殿(武道場)を移築したものです。その為、通常の神社建築とは若干趣が異なる造りをしています。


【北隅楼】
正面社殿の北側に立つ楼閣で、京都市の平安神宮の東西に立つ蒼龍楼・白虎楼などと同じく風水に基づいて建立されたものです。五行説では北方は玄武という霊獣によって守護されていると言われます。


【南隅楼】
正面社殿の南側に立つ楼閣で、京都市の平安神宮の東西に立つ蒼龍楼・白虎楼などと同じく風水に基づいて建立されたものです。五行説では南方は朱雀という霊獣によって守護されていると言われます。


【筆立山稲荷神社】
衣食住を司る宇加之御魂神(お稲荷さん)を祀る境内末社で、もともとは神社裏手に聳える筆立山(ふでたてやま)の頂に御鎮座されていましたが、昭和の水害により山頂への道が閉ざされたため当社境内に遷座されました。お稲荷さんは午の日が縁日と言われ、特に二月最初の午の日は初午(はつうま)として重要視され、多くの方がお稲荷さんにお参りされます。


【平知盛卿墓・供養塚】
源平合戦で平家の将帥として名高い平知盛卿(1152~1185)が葬られたと伝わる墓と供養塚です(「源平合戦と平知盛」をご参照ください)。卿は平家随一の武将として源氏方を大いに苦しめましたが、武運拙く敗れついに壇ノ浦に入水されました。その最期は「平家物語」や能の「舟弁慶」などで盛んに描かれ、800年以上経った今でも日本人の心に深く刻まれています。


【大神貴文翁像】
大神貴文翁(1884~1964)は甲宗八幡宮第43代宮司で、明治17年(1884年)に当神社累代の社家である大神家に生まれました。明治37年(1904年)に若干20歳で当社宮司となると、爾来60年の長きにわたり甲宗八幡宮および神社界の発展、また氏子崇敬者の教化に尽力しました。その一方で戦災による境内の全焼失、子息の戦死や病死などの苦難を味わいましたが、戦後の神社界復興の旗振り役の一人として翁は大きな功績を残し、やがて神社本庁より「長老」の称号と「鳩杖」を授かるなど、凡そ神職として位を極めました。昭和39年(1964年)80歳にて死去した後、生前の翁の業績を讃え、氏子崇敬者や後輩神職が中心となりこの銅像が建立されました。


【小倉歩兵第114連隊第7中隊慰霊碑(左・中央)】
日中戦争勃発により編成された歩兵第114連隊第7中隊の戦友諸氏により、昭和43年(1968年)に建立されました。戦時中の門司港は将兵が出征する港であり、同連隊には「麦と兵隊」や「花と竜」などで知られる作家・火野葦平氏(1907~1960)も所属しておりました。その縁により「杭州西湖の思い出に 西湖の水の青くして 紅木蓮の花咲けば たづぬる春の身近く 兵隊なればたのしかる」の詩が刻まれています。


【火野葦平詩碑(右)】
昭和57年(1982年)、芥川賞作家・火野葦平氏の母校である早稲田大学校友会により建立され、碑文には「足は地に、心には歌と翼を、ペンには色と肉を」と刻まれています。


【川江直種翁歌碑】
現在、北九州市小倉北区に鎮座する篠崎八幡神社の宮司・川江直種翁が明治12年(1879年)に当社例大祭の折に詠んだ歌である「豊国の 門司の関やの 岩清水 くみて昔を 知るひともがな」が刻まれています。


【神敬閣】
主に能・狂言や雅楽、御神楽などを奉納する能舞台で、その他にもクラシックコンサートなどに使用されます。かつての神敬閣は昭和の初めに旧々拝殿(天保12年造営)を移設したものでしたが、戦災により惜しくも焼失してしまいました。以後再建する機会に恵まれませんでしたが、平成の御代に俄かに機運が高まり、平成20年(2008年)の50年に一度の式年大祭(創建1150年大祭)の事業の一環として再建が果たされました。


【神額】
近代福岡を代表する書家である宮小路康文(号・浩潮 1800~1899)の筆による「國輝」の神額です。浩潮は大宰府安楽寺(現・太宰府天満宮)の社僧として生まれ、幕末・明治における書家の第一人者として活躍しました。